『時間が足りない』という人間には次の2種類があると思う。 まずは、やるべき事が多すぎて、はなから『24』という時間のキャパをオーバーしている人。 次に、『今やるべき事』と『今やりたい事』の区別がつけられなくて時間の使い方を誤っている人。 そりゃあね、人間誰しも『24』をどう使おうと基本的には自由かもしれない。 『楽しい事』だけを優先させてもいいかもしれない。 でもそれは『自分だけの24の場合』だと思うのね。 『そこにはAさんしかいませんでした』――。 だとすれば24はAさんだけのもの。 Aさんの望むままに自由に使えばいいと思う。 『そこにはAさんとBさんがいました』――。 だとすれば24はAさんとBさんのもの。 『そこにはAさんだけではなく大勢の人間がいました』――。 だとすれば24はAさんだけのものじゃなく、Bさんのものでもあり、その他の人のものでもある。 だとすれば仮にAさんが 『俺、楽しい事しかしないよ。俺の24は俺のものだろ』 と言い出したとしよう。 確かにAさんの24は基本的にはAさんのものだけど、他の人と『共同生活』を送っている以上はAさんの言い分ってどうなんだろう? 多かれ少なかれ、人間誰しも楽しい事をしたいという欲求を持ってるはずで、だからこそその欲求だけを満たして生きていくと大変な事が起こると思う。 『Aさんだってやってるんだから俺だって』 『Aさんだってやってるんだから私だって』 そうなってしまうと『礼節』も何もあったものじゃない。 『俺は俺の24が大切なんだ。おまえらの24なんか知った事か!』 と言い始める人がいたら、極端な話、だったら『共同生活』なんてしなければいいのにって私は思う。 『社会で生きる』という事は、『時として自分の24は自分だけのものじゃなくなる』って事だと思う。 『人とかかわる』という事は、『時としてその人と24を共有する』って事だと思う。 自分だけが『24』で、他の人は『30』や『40』なんて事はあり得ない。 そして費やした『24』が再び戻るなんて事はあり得ない。 例えばね、みんなで『何時にどこそこで』って約束をして『やんごとない理由でたまに遅刻』とかはいいんだけどね、『反省もなくいつも遅刻』とか『みんなでいるのにいつも自分のやりたい事ばかり』とかになってくると、『ああ、この人は他の人の24の事なんて考えてないんだな』って思ってしまう。 『みんなで会う必要あったのかな』って思ってしまう。 せめて『遅れるよ』とか『今日はやりたい事させて』って一言があればちょっとは違うと思うんだけど。 確かに世の中には『今やりたい事』ばかりがある訳じゃない。 生きていく為には『今やるべき事』をこなしていかなきゃいけない時がある。 だって『そこにはAさんだけではなく大勢の人間がいるんだから』。 そんなこんなで『今やるべき事』と『今やりたい事』の区別がいつも若干つきかねる私は今日まで『24』をあるイミ無駄に使ってきた。 どうせなら『今やるべき事』を先にして、それが終わってから『今やりたい事』をすればよかったんだけどね、『両方同時にするんだ』って意気込んで、結局『24』の使い方を明らかに誤った。 だから『今やるべき事』が一段落した今日、私は心置きなく『今やりたい事』に取り組める。 今日は絶対早く寝る。 日付が変わる前に寝てみせる。
by id-from-bc
| 2006-05-17 21:32
| ひとりごと
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