約8年という長い闘病生活の末に父が他界したのは私が小学4年生の頃だった。 物心ついた時から、私の周りには大人がいた。 もちろん保育所や小学校にいる間は同世代の子供と一緒にいたけど、一歩学校から出てしまうと私の周りにはほとんどといっていいほど大人しかいなかった。 そんな環境にいた為か、私はいろんな大人に会って、いろんな事を考えて、いろんな事を理解するようになっていた。 なのに、ある大人たちは私が同じ部屋にいても『子供には分からないだろう』と思ったのか、父と母についての事やその他のいずれにしても楽しい気分では聞けないような話をよく興味本位でしゃべっていた。 私は内容を理解していた。 その人たちの話が聞こえる度に嫌な気分になったけど、私は周りの大人がするようにその人たちの前では気持ちとは違う表情を浮かべていつもその場をやり過ごしていた。 多分当時の私は子供のくせにその自覚を持てずに精一杯の背伸びで大人になったつもりの、どうしようもなく『いびつな子供』だったのだと思う。 親に迷惑をかけまいと言いたい事も言うべき事も言わずに『優等生』を気取って本当に可愛げのない子供だった。 そして私が小学4年生の秋、父が他界した。 それまでは父に向けられていた母の視線が全て私に注がれるようになった。 さぁ、困った。 自分の感情を表に出さずに生きてきたしっぺ返しか父を失った悲しみですら素直に表現できずにいた私は、母が自分を見てくれた事が確かに嬉しかったはずなのに、それをどう受け止めればいいのか、それにどう返していいのかが分からなかった。 私は母のように『それまで』と『これから』を区別する事ができなかった。 それからの母は私の勉強の仕方や友人との付き合い方にまで事細かに構ってくるようになり、私は戸惑いのあまり一時は母の言う事を聞き入れる事さえできなくなった。 ある日、母が私に言った。 『私は自分に学がなくて苦労した。だからあんたは賢くなり。賢い人間がそうでないふりはできるけど、そうでない人間に賢いふりはできひんから』 『今は遊ぶべき時ではない。大人になったらいつでも遊べるから今は遊びよりも大切な事をしなさい』 『とにかく大学は出なさい。そうすればたくさんの選択肢の中から進む道を選べるはずだから』 とにかく勉強に関する事はたくさん言われた。 後は付き合う友人についてもあれこれ言われた。 正直私は母の言葉が全て正しいとは思わなかった。 自分の意見を言えるようになってからは、『それは違う』と思った時には徹底的に母と何時間でも言い合いをして、それでも母に押し切られそうになった時は『ハンストする天照大神』になって自分の主張を訴え続けた。 思えばお互い若かった。 それからたくさんの時が過ぎ、私たちは昔のように必死に生きていないからか、平穏な生活で『平和ボケ』になってしまったからか、今ではすっかりゆる~い(笑)母娘になってしまった。 『あの頃』の私たちが『今』の私たちを見たらどう思うだろう? そんな事を最近ではよく考える。 かつて『ああだ、こうだ』と私の生き方にあれこれと構ってきた母。 今にして思えば母には母なりの考えがあって、私には私なりの考えがあった。 正直今でも私は当時の母の言葉が全て正しいとは思わない。 けど、全てが間違いだったとも思わない。 なぜならその言葉の根底には確かに『娘への思い』があったのだと理解できるから。 『賢い人間がそうでないふりはできるけど、そうでない人間に賢いふりはできひんから』 甘えようと思えば甘える事ができるけどむやみに甘えない人間と、甘えられない人間とは違う。 泣こうと思えば泣く事ができるけどむやみに泣かない人間と、泣けない人間とは違う。 深い読みをすると、いろんな事に当てはまる。 当時の母がそれを思って言ったのかは謎だけど、いずれにしても当時の私は『そうでない人間』だった。 今でも私は『賢い人間』ではないけど、もう『そうでない人間』ではないと思う。 今でも『馬鹿をする』事は嫌いだけど、『馬鹿になる』事は楽しめるようになった。 今年はもっと『馬鹿になる』。 けど、時々ホントに天然で馬鹿をした時や、馬鹿になりすぎて見苦しかったりした時は、どなたか私を止めて下さい。 できれば優しく止めて下さい。
by id-from-bc
| 2006-01-06 23:57
| 想い出話
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